昭和四十三年三月一日  朝の御理解


  三月十日に行われます公開講演会の信書の中にも、立教百年を目ざしてとあります。立教百年を目ざしてお互いが信心のけいこをさせて頂くということのもとは公開口演をと言った様な事でも信者でない方達にも聞いてもらおうという一つのお導き運動だと。金光教の信心を皆にも解ってもらおうと、認識してもらおうと。それを百十年祭をめざしてそういうお互いが働きかけになっていかねばならないというふうに、信書にも出ております。すこで、お導き、お導きといったところで、助からなければですね、お導きになりません。かえって話はよかったから教会にお参りしたけれども、たいした事はなかったという様な事になると、こりゃあ反対に、金光教の悪い宣伝をする様な結果に、いわばなりかねないわけです。今度の北九州教務所の今年のスロ-ガンといった様なもの。これも三月二十四日にここ合楽教会で開かれます。この主旨書にもかいてございますが、昭和四十二年度信徒会、こりゃあ、四十二年…四十三年度…信徒会幹部研修会という、この信書の中にも教務所のスロ-ガン「人が育ち、助かる教会体制の充実」という事、人が育ち人が助かるそういう教会の体制ね、姿勢、その充実を計る為に、今度会楽の教会で信徒の幹部の方達が、たくさん集まるという。吸収一つの教会から[
]づつの人が集まるというのですから、たくさんの人が集まる事になるわけです。そこをここでやろうというのは、まあ、言うなら、ここでは、いわばだんだん人も育って折る、助かっておる教会という、その一つの生きた手本がここにあるから、そこの広前でそいういう研修会をしたら良かろうといった様な事が、わたしゃあ、会楽を場所にされたその原因じゃあなかろうか、と、こりゃあ、まあ、私の考えですけれどね。思うのですよ。その様に人が育ち、人が助かっていくお広前の充実とこれが北九州教務所の今年の各教会に対する所の願いでありそれがスロ-ガンなんです。今度松[    ]会の主催で行われる三月十日のそれもこれは立教百十年という記念の年からを目ざして、少しでも金光教の充実を、計る為に、もっともっとたくさんの人が助かってもらうために、いわゆる公開講演をするわけですね。所謂信者でない方にも呼びかける訳なんです。けれどもそういう運動があって、成程、お話なさる方は、すばらしい方が、お話なさいますから、「すばらしい話だったな。金光教の信者で、改めて見直したなあ。なら、いっぺん近くの教会にまいってみようか」という事になってです、人が育ち、助かる事と体制、その充実のない、もしお広前であったら、反対の事になる恐れも、いわばあるわけなんですね。
 そこで、お互いがです、育っておらなければいけない。生々とね。やはり、お広前におかげ頂いて[    ]生々として信心の稽古をしておられる。その姿にふれたけれども、何とはなしに成程と感じさせる様なもの、同時に助かっておらなければならない。しうでなかったですね、結果はかえってマイナスになるんです。せっかくの催しが。  今日、私、御神前「導く」というね、あの善導寺の善「導」という字、これは導。
道の下に寸という字が書いてありますね。
 だから、そのお導きをするというからにはですね、ただ「お参りしてみなさい」「お話聞いてみなさい」だけじゃあいかん。お導きをする人自身がいわゆる道の上に立つとかなければならん。あじべのない道に自分我折らなければだめ。ただ、御利益であり、おかげであるというそれは道に立ってない。それではお導きはでけん。自分自身が本当に道に出とらなければ駄目。最近ここでも口を開けば、いわれる事は、いわゆる方向だ。これにも書いてある、ね。百十年祭ヲめざして、もう言うならばです、もう手段を選ばないというわけじゃあないけれども。百十年祭がたくさんの人によって、盛大に施行されたというだけじゃ、値打ちじゃあないのである。百十年祭はですね、こちたが言わんでも、ちゃんと、やってくるんです。三年後に。そでしょうが。百十年祭、百十年祭、いわんでもね。百十年祭は、いやがおうでもやってくるんです。
 だから、百十年祭をむかえる姿勢であり、体制が充実しておらなければならんのですよ。
 そこで、私共が、百十年祭へ向かっての方向ではなくてです、結局私が言うておる、神様に喜んで頂ける信心、そこを目ざしてお互いの信心の、信心の度合、程度に合わせて、まあ、様々の角度から説かれておるところの、その方向にこちらが向きをかえなければならん。それが私は、いわゆる間違いのない道に出ておる事であり、間違いのない道に立ったわけである。おかげ頂く、おかげ頂くという様な事で、自分の方向わ変えず、自分の向きを変えておかずに導きかれる信者なんておおよそそれは意味のないこと、ね。自分自身がやはりその道に出ておらなければいけない。
  昨夜の御理解「縁なき衆生は度しがたい」という、こりゃあ仏教の言葉なんです。けれども、金光教では、そんな事じゃあない、という様な説き方、又は私共それをそういうふうに思ってきた。けどもやっぱりそうなんです。縁なき衆生は度しがたい。度しがたいというのは、おさえ度をするというあの度である。おさえ度というのは、お導きをするという事である。人が救われ助かる為には、お導きをする、おさえ度をする。成程、天地の親神様は信心があろうが、なかろうが、世界中の氏子におかげがやってあるとおっしゃるから、ね。これは、おかげがある、もらっております。頂いております、けれども、それを知らない人、縁のないひと、これはやはり、度しがたいのである。
  昨日は、私、テレビの前を通った瞬間、誰かがつけっぱなしで、だあれも聞いて、見てないんですよね。
 そこでそのニュ-スが出ております。犯人の写真が出てから この女が子供を二人殺したというニュ-スを伝えておりました。産まれたばかりの赤ちゃんを生活の為出あるでしょうけれども、絞め殺した。それからゴミ箱のなかに。それを何年前にもそれをやった、という事を自供したというニュ-スなんだす。私はもう本当に足がこうテレビの前にパッとこう止められる感じでした。まあかわいそうに闇から闇に葬っていかれ、その魂と言うものがです、本当にかわいそうだなと私は思わして頂いた。夕べある人のこれもやぱりちいさい子供さんの立日あるというので御霊さんのお祭りというほどのことでもないけれども、まあちょとお供えどもさせてもらって、ご挨拶させてもらった。合わせてその二人の闇からや見葬られた御霊の事を神様にお願いさえせて頂いてお届けさせてもらった。
  これなんかそうでしょうが、もう縁がなかなければでける事じゃあないです。私がテレビヲ見たらというその縁がそういう事になってきた。成程、「縁なき衆生は度しがたし」とおっしゃるが、そうだなあと思うんです。
 そこで私共の周囲にです、私どもの縁者という人達がどの位あるかわからないのですよ。「袖刷り合うも、多少の縁」という程にです、密度に言う、そう言う縁はつながっておる。皆に、誰かに。けれども、それをはっきり解らしてもらう縁。自分の所の使用人なら使用人のかかし。こりゃあもう大変なその中心の人が信心するならば、この人達には、いわば密接な関係があるわけなんです。縁があるわけです。しんしょくなんかしたらなおさらの事。「袖刷り合うも、多少の縁」というぐらいであるから。お互いが、結局信心というのは極楽行きの【    】それを仏教ではあの世に極楽があるのですけれども、お道の信心では、この世で有難いという心を聞くこと。やわやぎの心を聞く事。日々が有難い。勿体ないという神恩報謝の生活をして頂く事、その事が、極楽だと私は思う。それにはね、どうしても仏教で言うですね、いわゆる五重というのがありますね。五重塔というあの五重というにはあれは、極楽行きのけいこだ。厳密に言うと大変難しいもの。けれども簡単にいうとあれは極楽行きのけいこをすること。五重に参加すると申しますでしょ。五重に入るという。それはです、重円、二重円、三重円、四重円、五重円という様にです、重の円が広がっていかねばならん。一重の円じゃあいかん。自分自身が助かってそれが所謂五重の円にもなってそこに助けられ、導かれていく時にですその中には、私極楽でないはずがない。私、今日「導く」という教えを頂いたのは、ただやはり道の下に寸というその事じゃなからにゃあ導きにならんのですよね。為には、まず自分自身が道に出ておらなければならん。自分自身が神様に通う喜んで頂ける信心の方向へ自分の方向を、向きをかえとかなければならん。そういう道に立っとらずしておいて人に導くって事は出来ない。下に寸という字が書いてあるのはこれはもうもんのちょとという意味だと。一寸と書いてちょっと読むわけですね。自分が道にでる。自分が本当にです、方向を変えた所の信心、それは私がここにおいていろいろの角度から聞いてもらった。そういう信心の程度においての自覚でございますからね。おかげを頂かなければならん。それでいいのだ。けどそのおかげを頂かなければならない事を通して、自分の信心の向きが変える。向きを変えとかなければならない。「信心とは本心の玉を磨くものぞや」「信心とは、日々のあらたまりが第一ぞ」と例えば、言う様な事が、例えばその難儀なら難儀を通してこの難儀を持って磨こう。この難儀を通して半期であらたまるう。とこりゃあもう向きをかえる訳なんです。信心とはおかげを頂く御利益の事じゃあない。信心とはもう、本心の球を磨く事にあるのだ、あらだまる事にあるのだという様にですね、様々な神様でまちがいのない方向というものを教えて頂くのでございますから、その方向へでとらなければならん。そういう信心が、そういう信心の道に自分がたたせてもらってから始めてです、お導きというものが、出来るわけなんです。しかも、それにはです、自分にはどの位の縁がある人があるやわからんのでございもす。自分がその気になって、自分がその本当の信心をめざしてもらって、そして、その本当の信心を目ざす人にすすめる勧誘する。真実の幸せを、自分が頂くその道に立って、この道さえ行けやあ、絶対自分が助けられるという確信を持ってのいわゆる、ちょっとである。そういう内容をもっての例えば、三月十日野ですね、信心のない方にでもお話をしなければならんというのはそういう自分自身がまず方向をかえてからのものでなければ意味がないという事である。三月十日の公開講演会といい、または二十四日の北九州幹部研修会という、又、教務所の今年のスローガン出あるところの「人が育ち、助かる教会その内容充実の為に」という事歯です、教、私が申します、様な内容がなかなければならないと思う野です。自分自身が一つの方向変えをしとかなければだねだと、ね。
 そして私は、今日頂いた、これは色々意味がありましょうけれども、ここん所二ね、善光寺の道である、善導の導である、道の下に寸という字を神様は、これはどういうふうに私共に教えて下さるだろうか。公開講演会だけの事じゃああるまい。一事が万事に、自分の周囲にはもうジウ十重、はたえに縁のある人が、その縁のある人達がです、重円そして二重円、この人を導いたらその導いたひとがまたお導き、しなければならん程に助かる。それがこうね、一人がおかげを受けた為に千人も万人もおかげを受ける様になるという様ないわばおかげなんです。っっそこに、いわゆる濃く楽行きは約束されるのである。この世で極楽の気持ちを頂かせて頂くのもそれなんです。めざすところはそこでなかにゃあいかん。そのために本気で一つ自分たちの信心の方向というものです変えなければ、おかげはうけられないと思うのです。
  私は今までお道の信心はそうじゃあないと、こう思うておった。「縁なき衆生は度し難たい」あれは仏教的言葉であって、お道の信心はそんなもんじゃあない。それこそ「どうぞ、氏子、信心しておかげを受けてくれよ」と「おかげを受けてくれよ」というて、神様は例えば信心のないものでも、後からもう拝んでおられる、ね。又は「くずの子、程かわいい」不信心もの程神はかわいい」これは、わたしどもの言う天地の親神様のこりゃあ心情ではある。そういう天地の親神様の切実たるところのです、ね。思いもです取り次ぎという事によって、初めてなされる。取り次ぎという事は、お導きのことなんです。今交差名金光様の先生だけの事じゃあない自分が自分の信心を取り次ぎがして頂く。これがお導きだ。それで自分の信心そのものがですね、道にでておらなければだめだという事。でなかったら本当の助かりになっていかない。いわゆるその五重円になっていかない。確かにこの神様はです、「くずの子程かわいい」という、心情の神様ではあるけれども、それとてもです、やはり、縁がなからなければ、縁が生きてこなければです、天地の親神様とても、どうにもおできになる事はできんという、いわゆる、やはり「縁なき衆生は難がたし」野である。
 そこで「袖刷り合うも、多少の縁」である。
  刷り合うも、例えばテレビの前を通ったばかりに、二人のみたま様のそれこそ、お経一つあげてもらった事もなかろう。お法事一つしてもらった事もなかろう。その小さい闇から闇に葬っていかれる御霊が私と縁だできた、そうして昨夜もうこれは余談ですけれどね。それを私が思わして頂くとたんから両方の方がもうとにかく重い程痛いんですよ。夕べおまつり済ましたらうその様二よくなった。それはやはりおかげを受けたという印を私の五体にあらわして見せて下さったんだと思うんですけれどもね。そういうふうにして助かっていく。それに私自身が、その道に立ってかなかったら助かる事出来ない。方向変えときゃいけない。
 そして皆さんの周囲にですね、縁のある人に、縁に任せてよい信心を導かして頂くという事。はっはあこういう事になってくると、こりゃあいよいよお導きという事がですね、大事だちいう事になります。ただもう人を助けて我がたすかっておらずして自分自身が道に立っておらずしをいてからいうのでは、それは心の重荷二成る。
 だから私じゃあお導きはするなといってきた。【      】じゃないけれどね、(笑)いきなり【      】お導きしちゃあならん、私には私の力の限界がある。いきなりじゃでけんというて来たんですけれども。各々がそういう自分自身んがもういよいよ、助かって、助かってという事は自分自身が本当の方向を向いてからの導きならば、そこにその力がある、導かれる、助かる、そういうおかげを頂いて頂きたいと思いますね。
どうぞ。